【震災と建設業】とは?
石川県能登半島地震の復旧対応に尽力されている建設会社さまに取材し、発災当時のことや、能登の復旧・復興に対する想いなどをお話ししていただく企画です。
第1回目の今回は、建設魂のライターである著者自身が経験した能登半島地震の記録と、被災地でお世話になった建設会社さまについてお伝えします。
※この記事には被災地の画像が含まれます。
著者プロフィール
ライターH:石川県出身。2024年1月1日に発生した能登半島地震を、石川県輪島市の祖父母宅で経験。この震災をきっかけに、東京から地元へUターンし、現在は金沢で生活をしながら定期的に能登へ通っている。(写真は実家の愛猫)
地震発生から半年以上が経過した今も、能登で復旧対応に尽力されている皆さんのことを広く知ってもらいたいという想いから、この企画を立ち上げた。
2024年1月1日、輪島にて
2024年1月1日。私は輪島市の東部にある祖父母の家で、お正月を過ごしていた。
「漆芸美術館、元日から開いとるそうやわ」
そんな祖母の一声で、昼過ぎから市内の中心部に家族5人で出かけた。美術館で見事な輪島塗の品々を見た後、朝市通りを車の中から眺め、帰り道に千枚田ポケットパークへ寄った。たくさんの人で賑わう売店で、祖母は家族の人数分、棚田米のおにぎりを買っていた。
16:06 前震(最大震度5強)
家へと向かう道中、祖母のリクエストで、近所にあるグラウンドゴルフ場へ寄ることになった。ちょうど駐車場へ車を乗り入れた瞬間、ビーッという音がして、家族5人を乗せた車体が揺れた。
ほどなくして揺れは収まり、「今のはちょっと大きかったね」「走ってる最中じゃなくて良かった」と話しながら、急いで家へ向かった。90歳を目前にした祖父だけが、この日1人で家に残っていたからだ。
家に着くと、祖父が外に出てきていた。お互いに「無事で良かった」と言い合い、この日輪島にいた家族6人全員が、お互いに手の届く距離に集まった、まさにそのタイミングだった。
16:10 本震(最大震度7)
一瞬、何が起こったのか分からなかった。とにかく立っていられなくて、その場にしゃがみこむ。家族6人が円になって、お互いの体を支えにしながら、ただただ耐えた。私たちのすぐ目の前で、大きな音を立てながら家が揺れ、瓦が落ち、ガラスが割れた。
後から調べたところ、この時の揺れ(本震)は、私たちのいた輪島市東部で震度6強を記録し、持続時間は約40秒だったそうだが、体感としては数分続いたように思えた。本震の後にも最大震度5強の大きな揺れが何度か来たので、余計に「長い地震だった」という記憶が強いのかもしれない。
大津波警報
揺れが少し落ち着いたタイミングを見計らって、家の敷地内に停めていた3台の車を、少し離れた畑に移動させた。とにかく建物の側から離れようという判断だった。この時点で、スマホの電波は入らなくなっていたが、カーナビのテレビやラジオは視聴することができた。
みるみるうちに日が落ちて、暗さと寒さを増していく中、ニュースでは能登に大津波警報が発令されたことを報じていた。高台に逃げるよう呼びかけ続けるラジオの音声を聞きながら、どう対応するべきか家族で繰り返し話し合った。
幸い、私たちがいた場所まで津波が到達することはなく、ラジオから流れる避難の呼びかけも次第に落ち着いていった。ただ、津波が来るかもしれないと恐怖していたあの時間のことは、地震から半年以上が経った今でも、なかなか忘れられずにいる。
車中泊
車に避難してしばらく経った頃、祖母が千枚田ポケットパークで買っていた棚田米のおにぎりを皆で食べた。この時、カーナビから流れるニュースでは、朝市通りの大規模火災を伝えていた。……今日通ったばかりのところだ。
おにぎりはまだほんのり温かく、本当に美味しかった。このおにぎりを握った店員さんも、千枚田ポケットパークにたくさんいたお客さんたちも、朝市通りですれ違った人たちも、皆みんな、どうか無事であってほしいと願わずにはいられなかった。
この日は、畑に停めた車の中で一夜を明かすことになった。一酸化炭素中毒の危険性を考え、エンジンは基本的に切っていたので、とにかく寒さがこたえた。寝て起きたら、今日の出来事が全部夢だったことになっていないだろうか。そんなことをひたすら考えていた。
一夜明けて
1月2日、朝7時。残念ながら地震は夢でなく現実だったが、外が明るくなると、少し気分も晴れた。
家の様子を見に行った父から、リビングとして使っていた部屋は被害が少ないため、そこを生活空間として使おうという提案があった。注意しながら家の中に入ってみると、家具は倒れて物が散乱し、ところどころ床も落ちてはいたが、片付ければ生活は出来そうだと思えた。
手分けして家の片付けを行い、リビングに石油ストーブや毛布などを運びこむ。真冬だったことが幸いし、冷蔵庫に入っていた食品も、すぐに悪くなる心配は無さそうだった。
片付けが一段落し、石油ストーブで温めた牛乳を飲んだ時の感動的な美味しさは、きっと生涯忘れないだろうと思う。大丈夫、生きていける、と思えた瞬間だった。
避難所までの道のりで
暮らしの目途が立ったところで、状況把握のために、避難所へ行ってみようということになった。父、母、私の3人で、普段なら歩いて20分ほどの距離にある学校へ向かう。その道中で見た光景は、あまりにもショッキングなものだった。
割れて段々になった道路。そこにはまって動けなくなった車。大きく傾き、電線をだらりと垂らした電柱。そして何より、原型を留めないほどに崩れてしまった家、家、家。
散乱した瓦礫やガラスを踏みしめ、通れそうな道を探しながら、普段の倍の40分ほど歩いて避難所に辿り着いた頃には、かなり気持ちが落ち込んでいた。
陸の孤島
開設されたばかりの避難所には、既に多くの人が集まっていた。体育館の床はビニールテープで区切られ、避難されてきた方々が自分のスペースでそれぞれ過ごされていたが、この時点でもうほとんどの区画が埋まっているようだった。
玄関を入ってすぐのところにはホワイトボードが置かれ、把握できた避難者の人数や、道路状況などがメモされていた。窓口では町や市の職員と思われる方々が、厳しい面持ちで対応にあたられていた。
窓口対応をされていた方に話を伺ったところ、町の外に繋がる道路は全て寸断され、この地域は陸の孤島となっているようだった。想定よりかなり厳しい状況であることが分かり、帰りの道中は自然と口数が少なくなった。
この日の夜は、6畳のリビングで、ソファに3人、床に敷いた布団に3人という割り振りで眠った。快適とは言いがたい環境だったが、前日の車中泊に比べれば格段に寝やすかった。
余震のたびに家がガタガタと鳴る怖さにも次第に慣れて、馴染んだ家で眠れるありがたさをひしひしと感じた夜だった。
1月3日に見た希望
1月3日も、家の片付けが一段落したタイミングで、避難所へと出かけた。先の見えない状況の中で、とにかく何か新しい情報がほしかった。
家から避難所までの道程で必ず通る橋が見えてきた時、思わず「あっ」と声が出た。重機だ。誰かが重機で、橋を補修してくれている!
橋に近づくと、地割れによって大きな段差が出来ていた箇所を、砂利で埋めているのだと分かった。通りかかった私たちに気づくと、作業を止めて下さったので、お礼を言って橋を渡る。重機に印字された社名を覚えて、後から家族に聞いたところ、同じ町内にある建設会社さんだと判明した。
この日以降、町内の色々な場所で、橋や道路の補修をされている方を見かけるようになった。きっとご自身も被災されたであろう状況で、地域のためにいち早く復旧作業にあたられるその姿は、私の目に本当に眩しく映った。
こんなに頑張ってくれている人たちがいるんだから、きっと大丈夫だ。
私も、私に出来ることをしよう。
あの頃の私は、毎日避難所へ通う道中で、「橋や道路が少しずつ直っている」という事実以上に、大きな勇気と、前を向く気持ちをもらっていた。あの光景は間違いなく、私にとって大きな希望の光だった。
今の私に出来ることを
最終的に私は、1月7日に能登を出て、石川県南部にある実家へ帰ることができた。その後、一人暮らしをしていた東京の家を引き払って地元に戻ることを決め、現在は石川県で暮らしている。
祖父母の家を片付けるために能登を訪れるたび、どんどん修繕が進む高速道路に感動する一方で、1月からほとんど変わらない町中の景色に、震災復旧の大変さ、途方も無さを思い知らされている。
あの地震は、まだ何ひとつ過去になっていない。今この瞬間も、復旧に尽力されている人たちがいる。私に出来るのは、その事実を1人でも多くの人に伝えることだと思っている。その第一歩として執筆したこの記事が、読んで下さったあなたの心に少しでも残れば幸いである。
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